生薬のはなし
蟾酥(センソ)その三
「…ガマの油に発汗防止剤が含まれているのは確かだ。微妙な指先の感覚にたよるバイオリニストは、その昔、これを手に塗って演奏したといわれている。」
絶滅の恐れがある野生動植物の国際的取引を禁じたワシントン条約で、象牙の輸入は、密輸を除いて事実上不可能になりました。ピアノの鍵盤には象牙がもっともよく、象牙が適度に汗を吸い取り、指が鍵盤で滑らないからだといわれています。これと同じで、というよりもさらに、バイオリニストも手指の発汗には神経を使うのではないでしょうか。今日では、簡便な制汗剤ができたためか、この方面でのセンソの需要は聞きませんが、ドイツのバイオリニストは演奏前にガマの分泌液を塗り発汗防止に利用した、とM・ディッカーソンという人の著書にあるようです。
センソの発汗防止作用は、含有成分の1つであるエピネフリン(アドレナリン)の血管収縮作用によるのか、その他の成分によるのかは定かではありません。ムツゴロウ先生は「微妙な指先の感覚にたよるバイオリニストは」と書かれていますが、これはガマの油を愛用したバイオリニストに聞いてみるしか方法はないでしょう。
ムツゴロウ先生のお話に沿って、局所知覚麻酔作用、強心作用、発汗防止作用というセンソの薬理作用の一部を紹介しましたが、センソにはこれ以外にも多くの薬理作用が報告されています。
例えば、抗炎症作用ですが、センソは炎症の初期モデルである血管透過性亢進に対して抑制作用を示し、後期モデルである肉芽形成抑制作用も示します。これは、センソが炎症のすべての過程で有効に作用するということです。中国での使用法の中心である腫れ物への用い方は、局所麻酔作用にともなう鎮痛作用を合せもっていることを考えあわせると、センソは素晴らしい抗炎症剤であるということが科学的に証明されているともいえるでしょう。
センソには強心配糖体の他に、エピネフリンやブフォテニジン、ブフォテニンといった塩基性の成分の存在が知られています。これらは、最近では、センソの薬理作用の本体とは考えられていませんが、センソの作用の一部を担っていることは間違いありません。副腎髄質ホルモンであるエピネフリンは、例えば交通事故などで人がショック状態に陥ったときに投与すると、心拍数を増加させ、心収縮力を強めて、急場をしのいでくれます。しかし、残念ながら口から服用しても、消化管や肝臓で分解されてしまうため、注射や点滴でないと効かないことがわかっています。
ただ、エピネフリンは末梢血管の収縮作用を持っていますので、外用すれば効くことも事実です。ですから、切傷や擦り傷など末梢血管からの出血であればたちどころに止まるという陣中膏ガマの油の香具(やし)師の口上もまんざらデタラメではないわけです。 ガマは古来、その容貌が怪異なため、なにかしら霊性をもつ生物とみなされ、さまざまな言い伝えや、物語に登場します。中国明代の薬物書である『本草綱目』には、「千年を経たガマは頭の上に角があり、お腹のところに赤い斑紋がある。…もし、人間がこれを捕まえて食べれば仙人になれる。方術士はこれを捕まえてきて霧を起こし、雨を祈り、軍隊をしりぞけ、縛を解く」という話が紹介されています。ガマが千年生きるというのは怪しい話ですが、上記のガマの成分の1つ、ブフォテニンは幻覚剤として有名な、麦角アルカロイドから合成されたLSDとよく似た薬理作用をもっており、その幻覚作用はキノコの一種に含まれているムスカリンとよく似ているとの報告があります。センソを服用しても幻覚作用は現われませんが、こんな成分が含まれているということも、ガマと妖術が関連付けられる一因なのかもしれません。
ブフォテニン(センソ)
ムスカリン(ベニテングタケ)
【引用文献】
畑正憲『われら動物みな兄弟』角川書店 (1972年)
上海科学技術出版社―小学館編『中薬大辞典』小学館 (1985年)
市川衛『蛙学』裳華房 (1954年)
須賀俊郎、代謝 10:762〜774 (1973年)
鈴木真海―木村康一『新註校定国訳本草綱目』 (株)春陽堂書店 (1979年)