はあとふる対談

「一歩ずつ、駆け抜ける」ゲスト:増田 明美さん(スポーツジャーナリスト)

聞き手:堀 正典救心製薬株式会社 代表取締役会長 慶應義塾大学卒
趣味は謡曲、書道、墨絵、車、ゴルフ、ネイチャーフォトなど

明美(ますだ あけみ)さん
増田 明美(ますだ あけみ)さん
スポーツジャーナリスト

千葉県いすみ市生まれ。成田高校在学中、長距離種目で次々に日本記録を樹立する。1984年ロサンゼルス五輪女子マラソン代表。92年までの13年間に日本最高記録12回、世界最高記録2回更新という記録を残す。引退後は日本陸上競技連盟理事などを歴任。2001年から10年間、文部科学省中央教育審議会委員を務める。現在、大阪芸術大学教授、スポーツジャーナリストとして活動。日本パラ陸上競技連盟会長、全国高等学校体育連盟理事、日本障がい者スポーツ協会評議員、2021年世界パラ陸上選手権大会組織委員会会長を務める。

栄光と挫折
本日は日本を代表するマラソン選手としてご活躍後、現在は大学教授、スポーツジャーナリストとしてご活躍中の増田明美さんにお話を伺います。陸上競技との出会いは?
増田
きっかけは駅伝です。子供の頃は「エースをねらえ」の„岡ひろみ"になりたくて、中学の時は軟式テニス部に所属していました。テニスの才能はなかったようですが、冬の町内1周駅伝大会に助っ人として参加した時、陸上部の選手より速かったんです。その時の後ろから追い上げていく感覚が陸上を好きになるきっかけでしたね。その後も風を切って走ったり、風を纏って走ったり、そんな感覚が自分に合っていたように思います。当時は専門的な練習をしなくても好成績が残せ、その後、成田高校の瀧田詔生先生(俳優 滝田栄さんの兄)にスカウトされ、ご自宅に下宿させて頂きながら専門的に陸上競技を始めました。
高校時代から何度も日本記録を出されましたが、初めは中距離選手?
増田
1年時は800m、1500mでしたが、3年生になった時、1984年のロサンゼルスオリンピックに女子マラソンが正式種目になる流れだったので、高校3年から10000m、フルマラソンも経験し、卒業間際には日本記録を樹立しました。今思えば早くにやり過ぎてしまい心が育っていなかったので、その後マラソンが辛くなってしまいました。陸上競技を好きと思ったのは子供の頃だけですね。野外走とか蜜柑の花の香りの中を走ったり、蓮や梨の花、景色を数えながら走ったあの時だけで、競争になってからは辛いことばかりでした。
ロス五輪では国民の期待を一身に背負わされた印象でしたが、プレッシャーでしたか?
増田
私が出場した当時は、「日の丸に恥じないように、日本代表として責任を果たしてきなさい」と言われ、その度にショボンとしていました。世間の空気が60年代に近かったように思います。今の選手は壮行会などで「あなたらしく、がんばってきてね」と応援されるようになりました。スポーツという言葉の語源はラテン語の„デポルターレ"で「戯れる」「楽しむ」という意味がありますし、その点は変わったと感じます。
当時を振り返れるようになったのはいつ頃?
増田
引退後、講演のお仕事を依頼されるようになり、自分では二十歳の頃の事ですし、失敗してどん底を味わったオリンピックのことを話すのは最初は嫌でした。でも、「あの時途中棄権して、成田空港で非国民と指差され閉じこもってしまったけれど、私は今、凄く元気です!」という話に、聴講者から「自分も辛いけれど凄く励まされました」と声を掛けて頂きました。私の話で元気になってくれる方がいるのなら、これは話さなきゃいけないって思いました。こんな風に語れるようになったのは引退して4、5年経ってからですね。
アスリートとしてご自身が大切にしてきたものは?
増田
マラソンは遠い目標に向かって日々努力を積み重ねる必要がありますが、私はせっかちな性格で、良い結果をすぐに出したいと思っていたので、選手時代は焦らず、着実にという意味で「一歩、一歩」ということをすごく大事にしていました。引退後に論語の「知好楽」という言葉を知りました。勉学、スポーツ、仕事でも、そのことを知っているのは素晴らしいが、知っているだけの人は好きな人にかなわず、好きな人は楽しんでいる人にはかなわないという意味です。私のオリンピックは„知"で終わっていて、好きとか楽しむまでには至らなかったです。
楽しめるようになるには、大変な努力が必要ですよね?
増田
楽しむというのは本当に準備をして、やるだけのことをやった人が辿り着ける境地、自信がなければ本番を楽しむなんてできませんからね。「知好楽」は今、仕事をする上で座右の銘にしています。
走るということ
近年、特に中高年のランニング愛好者が多いですが、人気の理由と、そもそも人はなぜ走るのだと思いますか?
増田
1つは手軽であることと、最近私が思うのは、みんな前に進みたいのだと思います。走る動作って前にしか行かない、横にも後ろにも行かない。ただ前を見て、人生を進みたいのではないかしら。私は市民ランナーと一緒に走る機会がありますが、みんな本当に良い笑顔で、走ることを楽しんでいるんです。会社や家庭で色々あったりする中、あの距離(フルマラソン)を自身と向き合うことで、自分が解るし、弱い自分もたまに出てくる中、そういう自分に負けずにゴールにたどり着き、達成感を味わう。50歳なのに5年前の記録より速かったりすると、若さにも自信が持てる。有森さんが「自分で自分を褒めたい」と言ったように、走ることで自尊感情が高まるのだと思います。
それぞれに走る理由があるということですね。今でも走ってらっしゃるのですか?食事など健康管理に気を使っていることは?
増田
食事は主食、主菜、副菜をバランス良く、野菜を多く摂るよう心掛けています。運動は毎日1時間、夫と走っています。走ると血流が良くなりますし、気持ちの贅肉が取れますね。選手時代はどんなに遅くても1キロ5分だったのに、2人で走る今はややもすると8分。遅すぎて足に蚊がとまっちゃって、走りながら蚊に刺されるって私、すごい屈辱です(笑)。
人間を伝えたい
独特な細かすぎる解説や選手に関する小ネタが話題ですが、その理由や情報収集の方法は?
増田
選手である前に人であるし、競技ばかり伝えても面白くないじゃないですか。この人がどうしてこの走りができるのか、子供時代からの性格や好きな言葉などから、選手の人となりを伝えたいという思いからです。それと引退後にお会いした永六輔さんの影響があります。永さんはすごく人が好きで、興味を持った人のことをとても知りたがる方でした。永さんに「増田さんも解説するには現場に行かなくてはいけませんよ。取材とは„材"と取ると書きますからね」とアドバイスされました。現場に足を運び、本人や監督を取材し、自分の言葉で伝えるやり方は永さんに教わったものです。
パラリンピックでレガシーを
2020年東京オリンピック・パラリンピックの日本長距離競技の展望は?
増田
特にマラソンは8月の暑く湿度の高い中を走ることになるので、ピーキングと調整能力が大事になります。日本選手は高い湿度に慣れているから比較的有利ですが、アフリカ系の選手は暑さには慣れていても湿度は大嫌いなので、諦めが早いのではと予想します。彼らはレースの賞金で家族を養ったり、地域貢献している人も多く、メダルを諦めたら次の賞金レースに照準を合わせることが多いですから、早い段階で諦める選手が出てくると、日本人のメダルの可能性は高まると思います。でもこれって他力本願ですね。それから私、パラ陸上を応援しています。
パラ陸上関連の役職に就いていらっしゃいますが、パラ競技との接点は?
増田
陸上の取材をするうちに、パラ選手の合宿にも取材に行くことがありました。前会長が辞められる時に、選手の方からも声が挙がってお引き受けしました。日本のパラ競技の現状は、選手の競技力向上といっても協会に潤沢な予算がないので、自腹で海外遠征へ行く人もいます。観客にしてもロンドンなどは3万人も集まるのに対し、日本は日本一決定戦でもまだまだ観客が少ないんです。東京大会ではレガシーを残そうと叫ばれていますが、共生社会という面ではパラ選手を応援したり、ボランティアで支えたりしながら多様性を認めることが大切です。自国開催ではそれがレガシーとなる良いチャンスですね。
世間の見方や考え方に、パラ競技をそういう風に見て良いのか、思って良いのかという部分がまだあると感じますか?
増田
選手からはよく「障がいに関してだけでなく、アスリートとしての質問をしてくれ」と言われます。彼らは個々にプライドを持ち、自分達の„強さ"を見てもらうことを望んでいるんです。そこに健常者との違いはないということです。失われた部分は仕方ない、ある機能を最大限活かしきろうと努力する姿、身体の動かし方などはオリンピック選手が見ても勉強になるレベルなんですよ。パラ教育が盛んな千葉市では、選手が学校を訪れ授業をし、それに感動した子供達が親を競技会場に連れてきている風景を目にしました。また、最近のボランティアに高校生、大学生が多いのも嬉しい傾向です。学校で福祉の勉強をし、明るい笑顔で選手をアテンドして大会を支える姿は頼もしいですね。金子みすゞさんの詩の「みんなちがって、みんないい」のこころです。こういう拡がりがある中、むしろパラ競技の方がレガシーが残るのではと期待しています。
増田さんの優しいお人柄で、日本陸上界、パラスポーツ界の更なる発展を期待いたします。本日はありがとうございました。
2020 vol.36