はあとふる対談

脳を通して世界をみる 池谷 裕二 さん(脳研究者/東京大学 薬学部教授)

聞き手:堀 厚(救心製薬株式会社 代表取締役社長) 東京大学大学院、北里大学大学院卒、医学博士
趣味はバイオリン、ゴルフ、旅行など

池谷 裕二 さん(脳研究者/東京大学 医学部教授)
池谷 裕二(いけがや ゆうじ)さん

1970年静岡県藤枝市生まれ。1998年に東京大学大学院にて薬学博士号を取得。
コロンビア大学客員研究員などを経て、2014年より現職(東京大学薬学部教授)。専門分野は大脳生理学。とくに海馬の研究を通じて、脳の健康について探究している。文部科学大臣表彰 若手科学者賞(2008年)、日本学術振興会賞(2013年)、日本学士院学術奨励賞(2013年)、日本薬学会賞(2025年)などを受賞。著書に『海馬』『記憶力を強くする』『進化しすぎた脳』『夢を叶えるために脳はある』など。

研究者の原点
本日は池谷裕二先生にお話を伺います。先生が脳研究者を志したきっかけは?
池谷
東京大学は3年生から専門学部に進みますが、生物が嫌いで脳や薬学も興味がなく親がエンジニア系だったため工学部に進むつもりでした。しかし進学選択直前に伯母ががんで若くして亡くなり、がんって治らないの?だったらがんの薬を研究しようと子供っぽい発想から薬学部に進みました。生物の知識がなく生理学の難解な授業に苦戦し思いつきで進路を決めたことをとても後悔しましたが、未知の部分が多く神秘的な脳の研究をする薬品作用学教室を選択しました。まさかそのまま研究室に残り、そこの教授になるとは思ってもみませんでしたが、私は何にでも興味がある人間なので、他の分野に進んだとしてもその研究を突き詰めたと思いますし、脳研究を選択したことに後悔はありません。
研究テーマの一つであるシステム薬理学とはどのような分野なのでしょうか?
池谷
ここでのシステムとは分子や遺伝子などミクロばかり見ず、細胞や臓器、行動や症状まで縦に繋ぐ身体全体を指していて、これは脳にも置き換えられます。脳はシステムの一環であり身体があって初めて機能するもので、モニター機能等身体の中でどんな役割を持つのかを全体として捉え研究することをシステム薬理学と呼んでいます。一種の造語ですが脳を研究したからこそ気づいた分野と言えます。
研究、講義、論文執筆と多忙な中、メディアへのご出演も多いですね。
池谷
脳の研究ばかりと思われがちですがメディア露出時は必ず〝薬学部〟教授の肩書をつけ薬学の魅力を伝えると共に、薬剤師の教育やサポートも行っています。麻薬捜査官など特別な仕事や、薬剤師免許と博士号の両方を取得した人材が省庁に入り、専門知識を活かした法律改正、薬剤師の働き方改革を推進し日本の薬剤師の地位を根本的に変えられる優秀な人材を輩出するのを目標としています。一緒に研究した仲間が社会で活躍してくれることは教育者としてのやりがいと喜びに他なりません。
直感を信じよう
無意識に生まれる〝直感〟について教えてください。
池谷
脳内には言語化できることとできないことがあります。大脳皮質系で考える説明できる発想力を「ひらめき」と呼び、それより内側にある線条体や小脳で考えることは言葉にならないがなぜか答えが出ることで「直感」と呼びます。脳の観点では本当は直感の方が大切ですが、今の社会は直感的に考えたことの分が悪く格下にみる傾向があります。説明責任や義務から仮にそれが真実でなくても相手が納得するための方便を必要とし、ひらめきばかり重要視するのはもったいなく感じます。折角直感で良いことを思いついても、説明できない部分の理由を求めてしまうのは、人間の分かりたい欲求と納得を求める性(さが)なのか何とも不思議なものです。
分かると快感だからでしょうか。社会的秩序の中では全てが直感だけでは成立しないのも現実ですが、直感とは先天的なものですか?
池谷
確かに裁判官が直感で判決を下すことはないですし、それだけでは周囲の理解は得られないでしょうね。直感はトレーニングで身につきますが時間が掛かるので、人生経験を積んだ人の方が色々なことに俊敏に対処可能で、ベテランの直感は信頼に足るものが多いのも事実です。
直感とひらめきのバランスが大切ですね。
池谷
物事には色々な側面があります。例えば風邪を引いた時、家で休むのは早く回復するため、社会への感染拡大防止のためという側面と、野生動物の観点では群れから外れて捕食されるためで自然界への貢献ともとれます。この考えが好きか嫌いかではなく明らかにこの様な考え方もあり、新たな視点を受け入れ多様性を認めることは重要なことです。目の前のことと抽象的な思考、ミクロとマクロの視点をそれぞれ行き来できることが人間の凄いところなのです。
AIとの共存社会
先生は脳研究にAIも活用されていますが、AIの発達で人々の生活はどのように変わるとお考えですか?
池谷
過去の産業革命は機械化に伴う肉体労働の代替でしたが、AIは知的作業の代替なのでこれまでとは質が違い今は大転換期です。人間にしかできないと信じられていたことがAIでも可能になり、世間の価値観ががらりと変わる時、大切なのは変化を恐れず、様々な視点と適応力を持つことです。
研究以外でもAIを利用されていますか?
池谷
最近、車で移動中の話し相手はもっぱらAIです(笑)。もちろん家族との会話の方が楽しいし幸福感は高いですが、全ての分野で博士号取得者と同レベルの会話ができるAIには心が躍ります。先日小学生の娘が卒業文集をチャットGPTを使って書いているのを知り、驚きと同時に適切な使用法を教えるべきと感じました。こうして日々自分の価値観がどんどん変化していくのは楽しいことだと思います。
人と機械の境界線が曖昧になっていく中、〝人間らしさ〟との問いに答えるとしたら?
池谷
機械との比較で言うと感情の有無と、通常疑問とは自分の外に向けられるものですが、「私は何のために生きているのか」のように自己に対して問いを発する点は人間特有だと思います。時に答えの見つからない疑問に思いを巡らせ勝手に自己陶酔する辺りは滑稽にも思えますが、何かを追い求める行為は生きる駆動力であり、結局は分かりたい、納得したいという知的好奇心、承認欲求を満たすことに繋がるのかもしれません。
未知であることの共通点
人知を超えたAIとヒトはどう向き合っていくのでしょうか?
池谷
例えば創薬業界では、国の承認を得るためAIにより導き出されたものを人間が検証、理解する必要があるのが現状です。一方AIを活用した「たんぱく質の立体構造予測」で2024年のノーベル化学賞を受賞したデミス・ハサビス博士の“AlphaFold”は画期的な実験道具ですが、そのAIの予測原理を人間は理解できていません。〝分かること〟を最上位に置く科学界において、分からない部分のあるツールにノーベル賞を授与したのはこれが初で科学の概念のパラダイムシフト※と言えるでしょう。
生薬や漢方薬の効き目もその成分を全て明らかにすることは非常に困難です。メカニズムの解明も大事ですが、効く・役立つということに主眼を置き活用法を探るのも大切ではないかと考えています。
池谷
そうですね、このノーベル賞受賞の流れは生薬や漢方薬の理解にプラスに繋がるかなと思います。そのメカニズムの全てが明らかでなくても効き目は確かにある。システム薬理学の全体を見る考えにも当てはまります。そもそも自然界は人間に分かりやすく作られてはいないし、分からないことをすぐに否定してしまうのは単に人間のエゴではないでしょうか。
文献には何が薬として使えるのかひたすら試したとの記述が残っていますね。
池谷
関連した興味深い報告があります。チンパンジーが植物を胃腸内の寄生虫対策に使用することや、スマトラオランウータンが鎮痛作用のある植物を長時間噛んでペースト状にし、治療薬として顔の傷に塗ったりすることが報告されています。あるいは人類の祖先の時代から薬への試行錯誤は繰り返され、書物として残っているのはごく最近のことなのかもしれません。薬の歴史の方が人間の歴史より古いと思うと感慨深いですね。
記憶のはなし
記憶にはエピソード記憶や単純記憶など様々な種類がありますが、使う領域に違いはあるのですか?
池谷
時間と空間に敏感な海馬を使った記憶はごく一部で、自分の経験やエピソードはこの海馬に記憶されます。一方「コーヒーカップ」のような物の名前は時空を超越していて意味(単純)記憶と呼ばれ海馬とは記憶領域が異なります。人の名前、顔、会話など人それぞれ得意な記憶の種類があるのはこのためです。
記憶力を維持、向上させる方法は?
池谷
睡眠と歩くことです。ゴルフスイングなど身体性のものも含めどんな記憶でも寝ると定着するので、学習とは睡眠までがセットと考えると良いです。記憶という観点からは睡眠時間は10分で十分。歩くことは特に海馬に重要で、記憶には定着(エンコード)と引き出す(デコード)の2つのプロセスがありますが、エンコード時に場所を移動することが効果的とされ、最も良いのは自分の足で歩くことです。覚えるテクニックとしては連合性という記憶の本質を利用し、語呂合わせのように何か既存の知識と結びつける方法も有効です。
脳細胞は老化しますか?
池谷
厳密には少しはしますが、健康な脳であれば加齢に伴う実感ほどは衰えていません。年だからとか覚えてもどうせ若い人にはかなわないと思うモチベーションの低下、身体や筋力低下の影響の方が大きいです。例えば同じ姿勢で読書するには相当の筋力が必要で、昔のように長時間継続できなくなると「集中力がなくなった」と脳のせいにする人が多いですが、これは脳のせいではありません。筋トレである一定量の学習に耐えうるだけの身体能力を保持する必要があるのと、認知症予防には一日中ボーっとテレビを見たりせず、友達と遊びに出かけたりクイズを解いたりと能動的な知的作業を普段から沢山やることが大事です。
大変興味深いお話、ありがとうございました。

※パラダイムシフト…それまで当り前とされてきた考え方や価値観が劇的に変化すること。