主人公は四十歳の那須野富生だ。千葉の館山で一人暮らしをしている父・敏男に物忘れの症状が出始めていることが気になってはいるものの、まだ大丈夫と思っている。思っているというか、願っている。
子どもというのは、いくつになっても子どもで、だから親の老いが目に入っても、どこかで、安心したい気持ちが勝ってしまう。富生もそうなのだ。けれど、敏男のマイナンバーカード申請の手続きを補助するために実家に帰った折、敏男が包丁で指をざっくり切ってしまう。その時、敏男が作っていたのが、富生の好物のうどんだった、というのが切ない。
敏男の傷は深く、救急外来に駆け込むことに。もしこれが、敏男が一人の時に起きたことなら、と富生は思う。きっと救急車は呼ばなかったはずだ。かといって、流血した状態で地域医療センターのことを調べられたとは思えない。「まずは隣の安井さんなり前川さんなりにたすけをもとめていたかもしれない」。流血しつつ隣人に助けを求める父親の姿は、富生にとって「想像するだけできつい」ことだった。
この敏男の怪我をきっかけに、富生は実家に戻ることを決める。会社はリモート勤務OKなので、仕事はそのまま続けられるのだが、富生には八年付き合っている五歳年下の恋人・梓美がいた……。
元々がそれほど良好なものではなかった富生と敏男の父子関係が、ともに暮らしていくことで、少しずつ変わっていく様がいい。それは、富生が日々の暮らしのなかで、敏男の老いを受け入れていくことでもあった。二人暮らしの日々の中、富生が梓美との関係に出した答え、は実際に本書で読んでみてください。梓美がね、すごくいいんですよ。富生の恋人が梓美で良かった。
富生にはこれから辛い時間が多くなるかもしれない。それでも、敏男と二人で暮らす選択をした富生には、力いっぱいエールを送りたい。

